例えば

まず、今回の本題とは関係無いのですが。
オーディオハイエンダー達の間で「歌とは何ぞや?」という議論が花盛りの様です。
歌は感情だと言う者有り、歌はテクニックだと言う者有り・・・
私は、その方の求めるモノによって正誤が違うと感じるのですが彼らはどうも相容れない様です。
例えば「歌は感情だ」と言う方、(どちらかと言えば私もこちらに属するのですが)確かに歌は感情の産物だと思います。
例えば「歌はテクニックだ」と言う方、場合において正論だと思います。
だけど、その主張は何か言葉が足りない様な気がします。
例えば人が歌を歌う場合のプロセスを考えてみたいと思います、
オリジナル曲でも無い場合、歌い手はまず楽譜を読む事でしょう、
御存知の方も沢山おられると思いますが楽譜には音符の羅列・音の早さ・テンポ・強弱等しか書いて有りません。
あ、歌だと歌詞も書いて有りますか。
でも、その通り演奏すると人間は機械に正確さで負けてしまいます。
現在まだ生身の人間に匹敵する人工音声は開発されていないので自動伴奏ピアノを例にとりますと、
プログラミング者が何の色づけも行わず、4分音符は4分音符のままに8分音符は8分音符のままに演奏させますと、
何の暖かみのない曲が流れ出す事は想像に難く無いでしょう。
ここで人間の所有する感情の働きが必要となってくるのです。
歌い手は音の流れ・歌詞の内容より自分の経験・想像力を生かして、ここは悲しく歌う・ここは甘えた様に歌う等と歌唱方法を決定するのです。
ここで歌い手の感情の働きは終わります・・・と言いますか次のセンテンスはどう歌うかと言う次の感情の働きに移ります。
後は歌い手のテクニックの問題と聴き手の問題になっていきます。
ここで「歌は感情だ」と主張する方々はテクニックが少々劣っていようとも歌い手の歌唱方の選択が自分の感情の方向とほぼ一致していれば満足し、
「歌はテクニックだ」と主張する方々は歌唱法のみに着眼し、テクニックが劣っていれば満足出来無いのでしょう。
でも彼らは相互理解が成り立っているモノとして互いに議論を交わします、「歌は感情だ」と「歌はテクニックだ」と。
本当に相互理解は成り立っているのでしょうか?
どちらも自分自身再確認する必要は無いのでしょうか?
「歌は感情だ」とする方々、ある程度の歌唱能力が無ければ満足出来ない事を、
「歌はテクニックだ」とする方々、テクニックを発揮するためには上記のような感情の流れが必要だという事を。
そうです、歌にはどちらも必要なのです、ただどちらに比重を置くかの考え方だけなのです。
・・・ま知的労働者で無くなった私には自分が良ければ別に考えたくもないウザイ話なんですけどね(^^;

で、本題に入ります。
それはよくあるパラレルワールドの物語。

言葉は感情の動きを異常増幅すると禁止された時代、
人々は話す事をせず携帯メールの様に文章を他人に送りつけ返信を読みお互いの感情を理解するという生活を送っていました。
しかし、そんな毎日に疑問を持つ者も少なく有りません、人気のない場所で歌を歌い自分の欲求を満足させるのです・・・
人気の無いと思っていた場所そこには監視カメラが設置して有り、すぐにポリスに捕まり監獄に送られます。
刑はそれだけではありません二度と声を発する事が無い様、声帯を切り取られて。

一人の幼い子供がいました、
子供の前に高い塔から白い羽根が落ちてきました、
彼は白い羽根の事を誰かに伝えたくてたまらないのですが、上手く文章に出来ず
会話のない家族、会話のない学校では一層伝えられません。
話し相手は言葉を発せぬロボット犬だけです。
誰にも白い羽根を拾った淡い感動を伝える事の出来ないまま日々は過ぎていきました。

幼い子供は白い羽根はどこから来たのか確かめる為、それが降ってきた高い塔に上る決心をします、
子供が塔に上っているという情報はすぐに警察・両親にしれる事となり、かれらは塔の下にあつまります。
子供は塔に上り続けます、思わず声を発する母親、しかしすぐ周りに窘められ・・・。
塔の途中には老人の牧師がこの世に悲嘆し座っていました、白い羽根を見せるとさらに上方を指さしどこから降って来たのか教えてくれました。
子供は登り続けます、そしてその頂上で見たものは。。。

・・・ここから先はA-clips2〜Endless sorrow〜を御覧下さい。

私的には映像と合わせこの歌詞がすごく共感出来るものでありました。
彼女は昔からこんな傾向があるのですが、
何も見えなくなって信じるものが無くなる程打ちのめされ絶望の淵に立って、それでも足掻き続け独り助けを求め続けて・・・
それでも一つ一つ克服し現在に至る訳ですが、失ったモノの大きさをふと実感するのです。
彼女は平成の歌姫と現在では評価されているのですが、自分自身汚れてしまっているのもわかっているのでしょう、
時折歌にその悲しみをのせ悲鳴に似た歌声を発するのでしょう。
私には歌詞の無い部分のこの悲鳴が、すごく心に刺さります。
Endless sorrowでは「ここへ来てこの手を」の終わりの部分、
Far awayでは「終着駅でもあった uh-lalalai そうだったよね」のuh-lalalaiの部分、
他にも沢山有るのですが。。。
初期には歌詞が有る部分にも叫びがのっていたのですが、
最近は年齢的にも歌詞的にも青臭く感じるのでしょうか減っていますね。
・・・この悲鳴を聴く度昔の記憶が蘇ってイタイ時が有ります。
女子高生のカリスマと言われていた頃、彼女たちはこの悲鳴に自分と同じ痛みを感じ彼女に共感を覚えたのだと思います。
ただ、その痛みをある程度乗り越えた今、彼女は現在痛みを抱える彼女たちを救いたいと思うのでしょうが、
はたしてどうなんでしょう?
現在痛みを抱える人が、そうじゃない人に心を開くのでしょうか?
逆に金八先生を見て武田鉄矢に殺意を覚える私の様になるのでは無いかという危惧が・・・(笑)
ま、難しい話だ。

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